「かくかくしかじか、分かったか?」
「はい、社長!」
「では、宜しく頼むよ!」
「はい、社長!」
この「社長」が「部長」でも「課長」でも、あるいは、「先輩」でも同様ですが、指示をする側が、こんな返事を受けると、お分かりの通り、とても気持ち良いものです。
しばらくして、「かくかくしかじか」がなされているか見てみると、全く言った通りになっていません。「?」と思い、指示をした相手を呼びだして訊ねてみると、また返事が返ってきます。
「はい、社長、大丈夫です」
大丈夫では全くないのですが、いくつか問答してみてようやく合点することが、想いが全く理解されていないということな訳です。
「コミュニケーション力?それを育てるのも役目のひとつ」
これは、私が管理を任務として海外赴任した際に実際にあったことですが、実は、その時はまだ、日本語が分かるというスタッフに、私の母国語である日本語で指示していたのです。赴任早々、何度か同じようなことがあると、では、英語で、とできる限り英語で対話しようと努めることになりますが、大学卒業の事務所スタッフ社員は私より流暢に英語を話せるものの、工場生産現場の社員やその監督者には、英語を理解しない社員がいます。どうしても、現地ローカルの言葉を学び、使うということが必要と感じるようになったもんです。
しかし、海外赴任歴の長い人に相談することで、もっと深い気づきを得ることができます。
「そういう当たり前で大切なことに気づくのも、実際に赴任してからということが多いが、もっと肝心なことがあるな」
「いろいろな国があるが、ある国は、海外からの出稼ぎ労働者を常時雇うことで成り立っている。その国ローカル出身の大学を卒業したディレクターやマネジャー職らは、もちろん英語が上手で、そこへやってくる日本人も英語で意思疎通はできるし、商談などほとんどは英語で事足りるように考えられているが、その工場で海外からの出稼ぎ労働者は、英語や日本語、その出稼ぎ先の国の言葉をほとんど理解しないというのはともかく、自分の国の言葉であっても文字が読めない人が少なくないということは、実際にその場にいた者でないとわかりにくい事実だと思う。」
「日本資本で現地に工場を建てた会社で思うように生産が進まない会社があり、その工場に手助けに行ったことがあったが、現場で活動する日本人技術者らは、言葉が通じない、ワーカーの基本的知識が不足するなどを嘆くばかりの中、俺は、生産現場に色と図形や絵を組み合わせた看板をいくつも張り付けて回ることにしたんだ。」
「他の工場の例を知っていたからこそできたことだが、既に設立後5年以上を経過しているその日系工場では、誰もそのことに意識を払わないということには正直驚いたもんだ。日本から視察に来た経営幹部の人々が、俺の説明を聞くまで、識字率という言葉すら認識していなかったようで、もっともらしく『コミュニケーション力アップ!』というようなことを仰る幹部さんに、『コミュニケーション力?その環境を整え、それを育てるのも経営者の役目のひとつではないのですか?』とくちばしを挟むような言い方をしてしまったことがあった。」
「幸いだったのは、その言葉は日本社長に理解されたようだ。社長の指示もあり、現場でのコミュニケーション環境をさらに改良することができた。単に、現場の活気、モチベーションが上がったというだけでなく、見合うだけの結果も検証されて、実に幸いであったと思うよ。」
協働意識がコミュニケーションを自然に豊かにする
海外での出来事ではありましたが、日本国内の事情も全く同様であると思い至ります。課長や部長、あるいは、社長というタイトルを持つ以上、指示をするということは当然のように思われていましたが、「指示=自分は高みの見物」と翻訳理解されてしまえば、日本四文字熟語「面従腹背」であり、結果は、「言われたこと、言われたと自分が思ったことだけをする姿勢」であるというのは、恐らく、万国共通なのではないかと想像する訳です。
そして、同じ言葉を話せば言うことは伝わると考えるのは誤解なのであり、同じ言葉であっても、認識の違いは絶えず発生しているのであり、たとえ異なる言葉であっても、人の意識をまとめ、統一に至らしめるのは、日ごろの対話、そして、日ごろの共に働くという姿勢や態度なのであるということ、どの国の人であっても、案外、感ずることは同じなのであろうと思います。(一部の例外はあるようですが・・・)
かつて、上も下もない、共により幸せを求めるという意識を持ち、成果も得ることができた会社に勤務したことがあるということが、なお、その想いを支えるのだろうとは思うところですが、会社という組織は、要は人の集まりなのであり、人の行動、姿勢は、その個人の考え方を基点としていることは間違いなさそうです。
言うまでもないとは思いますが、考え方を同じにしなければならないということではなく、たとえ、考え方が異なっても、同じ方向を目指して共に進む、協力できる、協働するという意識を持てるかどうかというだろうと思う訳です。同じ方へ行こうとするなら、会社でも、家庭でも、同好会コミュニティでも、コミュニケーションは自然発生するはずです。