日本では陳腐化・・・海外では新しいモノ

その町工場は、一時は、業界で注目される製品を公開し、予約注文が数年分も溜まるという、飛ぶ鳥落とす勢いの時期を持つ町工場であったとお聞きします。当時は、特許や商標などの意識がなかったということもあるのか、しばらくすると、彼らの技術・製品は他社に研究模倣され、特異性を失い、その技術や製品は陳腐化したと言われます。当工場は先人者利得を十分に得た訳ですが、今では、新規発注は全くなくなり、これまでに出荷した製品のメインテナンス、補修などで何とか業態を維持するという状態にありました。

給料を払える限りは・・・と考えると、このままでは、退職金や会社身辺整理など閉鎖資金すら維持できなくなる・・・とも思いいたり、創業者は思考逡巡の日々を長らく持ち続けていました。ODA(政府開発援助)技術協力の提案が突然舞い込んで来たのは、その時のことでした。

海外取引未経験の町工場を支えた海外顧客と専門商社

それまで、輸出や輸入をしたこともない町工場です。ODAなどという突拍子もない話しを聞いて、創業者は当初笑うしかしようがなかったようです。しかしながら、ODAの肝である、案件と相手国政府の要請が最初から整っており、実施採用の可能性が極めて高いことを理解することで、それが全くの夢物語ではないことを実感しました。その案は、かつて、良き時代から協力し続けてくれた専門商社の担当者から提案されたものでした。これまでの関係を背景にしていますが、当工場の競合社は、国内取引が順調に進行しているが故に、海外に目を向けるという意識は全く期待されていないことが、当工場との出会いの発端のひとつになったようです。

何よりも強い支えとなったのは、その専門商社担当者に、技術協力先となる相手国顧客から強い要請が提示されていたことです。海外顧客が興味を抱くのは、当該技術が日本で陳腐化したという事情ではなく、その技術そのものと、その機械の導入です。当工場が、日本で最初に製品化した技術を開発したという位置付けが、その他の国の顧客には、相手国で「最初に」製品化する協力企業として注目されたのでした。

新しい取組がセレンディピティ向上のきっかけ

当町工場が属する業界そのものが、いささか古い体質を持っているのでしょう。未だに、受発注や連絡の方法として「ファックス」文章が利用されていました。流石に、中規模以上の取引先であれば、eメールやPDFなどの添付ファイルのやり取りを必要としますが、多くは、「手書き」「ファックス」によるやり取りが継続しているようです。社内連絡ではLINEを利用し、写真や動画でのホウレンソウも実現していますが、それら情報はあくまでLINEのメッセージとしてのみの利用に留まっていました。

しかしながら、そういう企業でも、ODA採択企業となれば、少なくとも、ODA実施機関であるJICA(国際協力機構)との間では、ビデオミーティング、電子書類のやりとり、ホウレンソウなどが求められることになります。また、ODA実施サポートを委託するコンサルティング会社との間でも、eメール、パスワード付ファイルの交換、ウェブストレージの利用などが必要となってきます。エクセルのSUM関数を使ったこともないだけでなく、ワードもほとんど使ったことがないという状態であるので、どうしても、かくかくしかじかを全て対応できる人を至急手当する必要がありました。それに英語文章の制作、閲覧という要件対応もあったのでした。

新しい取組に、一時的であっても、新しい人の採用を必要とするということなのですが、その新しい人の到来で、他にも新しいモノに出会ったり、関わる機会が生じてきます。

例えば、ODA採択企業となり、今後いよいよ・・・となれば、自社のウェブサイトを自社で用意しよう、Wordpressを使えば、格安で自社サイトを作れます、というような風です。ODA、eメール、パスワード付ウェブストレージ・・・など要件対応も然りながら、後継者に40台の現場責任者であった人物が登用され、新たな組織体制となったことも、各種各様な新しい取組の機会創造に繋がります。

新社長の号令もあり、自社の持つ技術は既に陳腐化しているため、ウェブサイトに限らず、得意先関連情報以外の自社情報は全部公開するということになり、新しいウェブサイト、SNSなどには、同業他社には見られない、かなり専門的な技術方法、工学的情報なども盛り込むこととなりました。合わせて、ODA採択で他国の人々とも関係しあうなら、英語、そして、当該国の現地語によるウェブ公開も、最低限してみようという運びとなりました。

ビデオミーティングに必要なカメラを買ってきたり、eメール、ワードやエクセルの使い方を社長を初め全ての社員が学び始めることと併せて、多言語によるウェブ制作、SNS公開が進められました。半年も経たぬうちに、日本の全く分野の異なる、けれど大きな企業の研究部から連絡を受信します。当工場の公開した技術について知見を習得のため、協働関係構築を希望・・・とのことです。日本人なら誰もが知っているであろう会社から連絡を受けるということ、それも、協働関係の打診などということは、当社には全く初めての経験となりました。

英語ウェブは遅々としたものでしたが、英語ウェブ公開数カ月後、アメリカのある州の会社から問い合わせを受信しました。その会社は、当社技術情報を長らく探しており、保有機械のメインテナンス、および、新規機械の見積依頼を至急・・・という内容であったのです。町工場という小所帯であり、ODA採択という夢にも思わなかった新規取組でてんやわんやとなっている中、更に新しい発注の機会を、それも海外から受信することになり、社員の意気は否が応でも盛んになってくるのでした。

考え方と行動を変化させる

何をやっても何も実らない、前に進まないと感じることがあります。自分事としてだけでなく、同じ感想を述べてくれる、他の人々もあります。そういう時、どの方向に進めば良いのか皆目わからなくなるのですが、斯様な実例に出会うことで、改めて、福沢諭吉先生の言葉を思い出すことになります。

考えが変われば、行動が変わる
行動が変われば、習慣が変わる
習慣が変われば、人格が変わる
人格が変われば、運命が変わる

思うに、考えだけを変えようとするより、行動も一緒に変え、行動しながら考えも変えていくというのが、現実的な方法になるようです。

考えと行動を変えるのは、すぐにできることですが、場合によれば、半日、数日、数カ月を要するかもしれません。習慣が変わると実感できるのは、数カ月から半年ほどの時間の経過が必要となるでしょう。自分という人格が変わると思うのは、数年から数十年間の振り返りによるはずです。

さて、運命が変わると自覚できるのは、どういう時のどのような感覚なのでしょうか。大成功を収めた時や、あるいは、もうすぐお釈迦様が迎えに来るという時に感知できるものなのでしょうか?

最近はあまり耳にしなくなった言葉「お天道様がみている」という日本語を思い出すのでした。