本社から海外現地事業閉鎖、従業員解雇、資産売却など、最後の始末について指示を受領し、まずは、現有資産の勘定確認、退職金や閉鎖費用の計算を行い、どのくらいの期間で撤収する必要があるのかを想定してみるのですが、買掛金などを決済すると、退職金準備金は用意できるものの、その後の資産売却活動、その期間の資産維持費などに充当できるおカネはほとんど残らないということが理解されました。資産売却は長くても2年間と想定しました。
私は、その事業活動の、それなりのプロであったと思いますが、会社閉鎖、それに伴う従業員解雇、そして、資産売却などなど、当事者ではありながら、全てが門外漢としてゼロスタートの対応となります。まず、会社閉鎖の従業員解雇というものがいかに凄まじきものかを、その後すぐに実感することになりますが、結果として、1年半ほどで、現地資産を時価売却した軌跡、いや、奇跡と感じますが、その顛末をここに簡単に紹介します。
売却資金枯渇、自社WEBを売却サイトに改修
海外資産売却としては、大きくもなく小さくもない中途半端な案件だと、不動産やM&Aなど、その道のプロフェッショナルの方々に指摘され、時価で売却を望む場合には、少なくとも5年以上の期間を見込む必要があることを教えてもらいました。時価売却を目指して、最後まで粘れという本社からの行動方針に従い、2年間での時価売却を希望することを申し上げると、その道のプロは、決して意地悪という訳ではなく、それまでの実績に従った冷静な想定として言わざるを得ないのでしょうが、静かに言葉を継いでくれます。
売手の方は皆さん、最初はそう仰います、しかしながら、1~2年で解決するには、捨て値で提示するのがこの世界では常道です。捨て値であっても、場合によっては、3年も4年もかかることもあります。
M&A会社は、活動費用を前払いする必要があり、その額もかなりまとまった金額になるため、当社には不向きと判断し、売却金額のレベート率で成功報酬払いである、現地不動産会社とは、一応なりの契約、広告掲載をお願いすることにしました。しかしながら、それは彼らの言う「常道」であり、そのままでは、「5年以上」を待機することになるのだろうことが予測されたため、まずは日本へ戻り、日本での売却活動に勤しむことになります。
日本でのおよそ半年の活動の結果、問い合わせすらゼロ、方々の国際セミナーや商工会議所などに当ってみたものの、交通費、宿泊費だけで残りの資金を大きく消費してしまい、すぐに赴任先に戻り、改めて、活動の内容について再検討することにしました。
海外現地でも口コミでの活動を進めてはいるものの、時間がかかる割には、然程多くの人々にリーチすることができず、ヤキモキする中、これまで公開していた現地法人の会社WEBのコンテンツを売却情報伝達内容に変更し始めました。Wordpressを利用して、私が即席に作成した現地会社WEBで、それまでも、クラウド上の広告塔、現地法人の道案内程度の意味しか持たないものでありましたが、売却活動の残された唯一の選択肢という状態に立ち至ったわけです。
WordPressを自学で何とか利用して公開してきたという程度であり、ベースがWPなので、何とかそれなりに見せてくれてはいるものの、今思い出しても素人丸出しのWEBでありました。いずれにしても、残された、大きい費用を必要としない、社外コミュニケーションの方法としてはこれしかないと覚悟しましたので、日本語、英語、現地語の3か国語で、素人なら素人なりに、あらゆる情報を公開してみようと考えたのでした。
WEB素人です、WEBを美しく見えるように・・・と言う発想ではなく、自分が海外に事業用地を探している、特定事業のプロなら何を知りたいと思うか?という視点からだけコンテンツを作成することになりました。その視点なら、現赴任地にいる間にいくらかのチェックポイントを繰り返し確認した経緯があります。
- 工場から最寄り港湾までの距離、交通事情、移動時間
- 工場から住居の距離、所要時間、また、住居周辺の利便性、レストランなどの情報
- 最寄りフォワーダー情報
- 工場従業員の住居範囲、町村や現状
- 日本人会活動と活用
- 日本領事館との関係
日本で種々の情報を関係機関から入手できるようになりましたが、遠国の現地の現状となれば、やはり、実際にそこに住み、そこで業務実務に携わる者しか分からない様々な情報が考えられます。既に10年そこで活動している者のひとりとして、隣接工場の殺人強盗事件、現地国軍や警察などとのやりとり、現地税関、税務署との折衝内容なども、それまで実際にあった事実コラムとして掲載しました。ただ、赤裸々な情報については、日本語だけの掲載です。
思えば、誰が見るのかというほど多様で大量な、道中や住居周辺、港湾などの写真も掲載していきましたが、それは、その時、とにかく何かをし続けなければ、頭が変になってしまうという奇妙な実感があったからなのかもしれません。
来訪者半分以上は眉唾ものだが、最終的に時価相当額で成約
ビギナーズラックというのでしょうか。WEB門外漢のものが書き記したWEBを見て、半年後くらいから、英文での連絡が立て続けに入るようになり、来訪のアポイントを取れるようになりました。最初は文字通り有頂天となったもんです。
結果的に、50者ほどの来訪を得て、最後の来訪者との間で成約となるのですが、最初の頃は、勢い込んで商談に臨んだこともあり、訪問者が単なる冷やかしや眉唾ものであることが分かると大いに落ち込んだものです。
- 工場建屋OK、10万ドルならすぐに買えるよ。
- 友人に斡旋してみたい、30万ドルでいかがなものか、なお、私には5%だけ分けてもらえば十分。
- 私は1000万ドルの決裁権を持つが、拝見して当工場が気に入った。さっそく、公証人と譲渡書類を作成して頂きたい、本国に戻ったらすぐ送金する。
平均すれば、月に4者ほどの来訪を得るようになったものの、斯様な発言を賜ることが多く、ガッカリすると共に大いに腹が立ったもんですが、なるほど、これが閉鎖企業に集まる人々であるのかをシッカリと学ばせて頂くこととなりました。
内、数社だけ、時価を少々下回る100万ドルで交渉を繰り返しましたが、最後で折り合いがつかず、彼らは、当地から20km~50kmほど離れた物件を購入したようです。それはそれで悔やまれたものです、何もそんなに粘らずに、100万ドルで手打ちしておけば、今頃は日本に戻っていたはずなのに、と何度も後悔しました。とは申しながら、日本のボスがまだまだと仰るのであれば、それはそれで致し方のないことでした。
既に50者ほどとの邂逅を得ながら、まだ成約できず、もう売却予定期日一杯になる、最終的には、ボスに叩き売りしかないことを上申しなければならない、などと一人問答している頃、また、連絡が入り、早速現地で落ち合い、商談しようとなります。いつものことか、と半ば、これまで同様な眉唾を予想していました。工場は30分もあれば十分隅々を見て回れます。既に工場はセキュリティだけで、応接できる環境はなかったので、最寄り、と言っても車で1時間ほどのところですが、あるホテルのラウンジで商談しようということになります。彼は彼のボスとのホウレンソウがあるため10分ほど遅れてやってきましたが、開口一番、いくら?と聞いてきました。こちらの提示価格を伝えると、そりゃ高い!もっとまけてよ!と・・・ますます、何だやっぱり捨て値の要求かと思い、半分以上面倒くさいということもあり、ならバイバイしようと腰を上げかけると、ちょっと待ってくれ、いくら何でも言い値でOKはできない、いくらかでも安くしてくれな、俺のボスに説明できんだろ!と見たところ、決して嘘ではない風な真剣な表情を示していました。
言い値で決まらないというのは、販売でも、仕入でも、当地では当然のことであり、売る場合には、希望売価の20~30%程度高めに希望売価を提示するのが常套手段となっていました。観光地などでは3倍~4倍で提示されますが、それは別物です。そういう背景なので、「少しでも」という言葉に真摯さを感じました。少し時間をかけて、話しを継続してみると、なんと、こちらの希望価格でOKであると意思表示してくれました。では、また、支払前にややこしいことを言い出すのかと思いきや、まとまった金額なので、半年間、3分割で支払うことを提示してきます。支払を含めて公証人役場で契約書を締結し、書類が整い次第最初の1/3を手付として振り込むと言います。譲渡書類の手交は、最終支払=振込完了後となるので、半年後、当地、公証人役場で最終手続きを行いたいと先々に予定を開示してくれました。
こうして、30分ほどの商談で、当初予定の通り、2年間、時価相当額で資産売却の成約を得ることができたのでした。
全てはタイミングか
手付を受けた後、残金支払が延期になっては困ります。公証人役場では、その辺も念入りに文言にしてもらうことになります。以前のローカル社員が協力してくれました。最初の手付が入金になればなったで、2回目は履行されるのかが毎日に気になり、2回目受領後は、最終支払を気にしてばかりいました。最後の最後まで、あらゆることが気がかりとなり、神経を張り詰め続けたからでしょう。気が変になってしまう実感ではなく、もう大分可笑しくなっていたのかもしれません。
お客さんが来ない時は、来ることを願い、来るようになれば、決めてもらうことを願い、決めてもらっったら支払を気にする、そんな繰り返しであったのですが、今のところ、当時の2~3年間がわが人生のピークであったと振り返ります。実に、稀有な例であり、契約していた不動産屋のマネジャーは、どうやったということをしつこく聞いてくるの、帰国までに全てやってきたことを伝授してきました。それが、一種のセミナーやら講義やらの様相となり、それはそれで面白い経験となりました。
当事者として良く意識していたことは、当時、工場域の土地価格が高騰傾向にあったことです。閉鎖企業資産だから叩いて買うというのは確かに「フツー」のことでしょう。捨て値で要求されることは半ば分かっていたことですが、たまたま、当時、周辺の土地価格が高騰傾向を示していたことが、唯一の、時価売却の根拠であったと言えます。短期決着が必要であったので、そのためには、相応のお客さんとの邂逅が果たされなければなりませんが、最初は、商売の基本である集客にてこずったのでした。
珍しい例であり、奇跡と実際感じましたが、全てはタイミングであったのだろうと思います。土地価格高騰、工場用地を必要とする人、それに、恐らく日本からお釈迦様が遠い出張に出て来てくれていたかもしれません。天地人とはよく言ったものだとつくづく思うのでした。それにしても、タイミングという時機を好機にしてくれた道具としてWEBの存在を忘れることはできません。
帰国の最終日、現地で飛行機に乗った時、胸にポッカリ大穴を感じながら思わず口ずさんだものです。
思えば遠くへ来たもんだ