コミュニケーションのPDCA

マネジメントのPDCA

品質改善の方法として有名なデミングサイクルは、誰もが聞いたことのある頭文字語、PDCAサイクルとしてとても良く知られています。Plan(計画)→Do(実行)→Check(確認)→Action(改善)のサイクルを絡み合わせて、より望ましい方向に向かう道筋を切り開こうとする考え方であり、それら無機質な言葉から、とても科学的で、合理的な印象を受ける手法です。これまでの半生の中で、小さな組織でもPDCAサイクルを、マネジメントのPDCAとして利用する様子を見る機会がありましたが、それは極端な二つのタイプに分けることができます。

ひとつは、社長や幹部が、社員にPDCAを回せ!と指示するだけで、PlanからActionまで全てを社員に任せきりにし、思うように行かなければ怒るというような、社員絞りのPDCAサイクル。Plan(計画)→Do(実行)→Check(確認)→Action(改善)という合理的な流れから、立案をして実行できないのは、立案者であり、実行者でもある社員の責任であるという理屈が、社員を苦悩させます。

もうひとつは、社長や幹部が、PDCA全てに意思決定者として絶えず関わり続ける、知恵絞りのPDCAサイクル。立案段階で、単に集計結果としての「売上目標・・円」というだけでなく、その目標に達するための子細なロードマップを描き、実行段階でも、単に「売上を作れ」というだけでなく、結果として期待される売上にいたる具体的行動をストーリーとして指示。都度、社員と協議、可能性を求めながら、行動を修正するというような協働タイプの組織。

両極端の例ですが、絞られるのが社員なのか、知恵なのかで、結果に、そして、その組織の文化や空気に大きな差が出ることは、私のような当事者ではない人にも察せられると思います。言わずもがな、その差は社長、幹部の考え方から派生するものですが、私の知っているのが、中小企業というより、小さな昭和の会社であったためか、前者の例に近い組織が多かったと感じます。あくまでも小さな組織での話です。

知恵絞りのPDCA

「知恵絞りPDCA」を考えるにあたって、設立間もない海外法人に勤務したことが大いに参考となってくれました。海外という日本とは文化の異なる国に赴任すると、カルチャーショックというものが少なからずある訳ですが、来客があり、「お茶を淹れてくれ」と女性スタッフに頼み、「お茶を淹れるために大卒でこの会社に入った訳ではありません!」とキッパリと返事される時などに、そのショックをとても強く感じることになります。そういうショックが、マネジメントのPDCAを考えるに当たって大きな気付きの元となったりするのです。

勝手なひとりよがりかもしれませんが、日本では、大卒であっても社員から「お茶を淹れるために・・・入った訳ではありません!」と返答されるとは思いもしないことでした。しかし、そういうことがあると、お茶を淹れるということにも、当社での独特な考え方をもとに、会社として協働意識化することが望ましい、必要だろうと思えてきてしまう訳です。思えば、特に21世紀に入ってから、訪問先のお茶の淹れ方が多様になったかなと振り返ります。面会する社員自身がお茶淹れをしたり、訪問先セクションのルーキーと思われる人が給仕をしたり、そして、昔ながらの昭和の風景の様に、いわゆる「事務」のおばちゃんがお茶を淹れてくれたり・・と、お茶を給仕してくれる人や、作法などは様々になったように思います。それぞれの会社のそれぞれのルール、しきたりがあります。

「お茶を淹れるために・・・入った訳ではありません!」という反応に接し、改めて、日本では、お茶の出し方によって、その人物だけでなく組織全体が評価される場合があるということを考え直し、今に伝わる、秀吉と三成の出会いとなった三杯のお茶の話しを思い起こし、新人スタッフに教え聞かせ、当社としてはこうしたいというようなことを説明しながら、自ら、お茶やコーヒーを淹れてみせ、書類が机上にある場合や会議中の際の給仕の仕方や、お代わりを訊きに行くタイミングなどについて実際にしてみせ、ロールプレイングすることで、意識と行動の定着を図ります。

そうすることで、スタッフの目が活き活きとしてくるのを見ると、なるほど、目的と方法が分かれば、誰でもできるし、ヤル気がないと早合点するより前に、指導不足があることに合点することになります。そうして、彼女が、少なくとも「お茶の淹れ方」についての指導役として自薦を申し出でるというようなことを聞くと、参画意識だ!経営意識だ!などと云々するより、目的と方法を明確にした具体的行動の訓練の方が、意識を持つゆえの結果を、より早く現実化できるのではないかと思いめぐらせたりします。その国の大卒者には、自分でお茶を淹れるということをあまりしたことがない人物もあるらしいという新しい認識や、自宅で両親にお茶を淹れるようになり喜ばれたという余談を得ると、何やら日本語の「一事が万事」という言葉を思い出さずにはいられなくなります。

  • なぜお茶を淹れるのか?(目的)
  • どのように淹れるのか?(方法)
  • 誰が淹れるのか?(人員)
  • いつ淹れるのか?(時期)
  • どの位用意するのか?(量)

「お茶の淹れ方」を他の社員に教える社員は、知恵を絞って、5W1Hで分かりやすく、PDCAを実行します。そんなことが、マネジメントはコミュニケーションを基礎とするという、当然のことを再認識する原体験となります。上司や先輩自らが目指そうとする姿をキチンと説明し、オレ、お前という個人の枠組みから、我々というチームとしての枠組みで意識を高めようとする、それは、本人に共感という実感がなくしてできることではないでしょう。我々は何を目指すのかという矜持を持つ集団になるためには、日常に、コミュニケーションと共感が伴う必要があるのでしょう。

目指す姿とPDCA

PDCAサイクルにある、PやDよりもまず先に、我々が何を目的とし、何をしようと考え、どういう姿を実現しようとするチームなのかを考え、意識として明らかにすることが、知恵絞りのPDCAには必要なようです。目指す姿をビジョンとするなら、それは、VPDCAと、もうひとつ頭文字を加えたサイクルとして理解した方が分かりやすいかもしれません。

考えてみれば、経営とは単に事業を行うというだけでなく、計画を持って行動を反芻しながら、より良い姿を目指すことと捉え直すことができそうです。その「目指す姿」をビジョンとすれば、今の姿と明日の姿とのギャップをどう乗り越えていくのか?それを考え、行動し、反芻、反省し、都度やり方を変えてみるということがPDCAの言うところであると合点できます。

PDCAが回らないとか、PDCAのPやDそのものが存在しないと感じる時というのは、PDCAよりも先に、何を求めるのか?、どういう姿を目指すのか?肝心のVについて思い直すべき時なのではないかと感じます。

コミュニケーションのPDCA

私の行った国では階級意識が日本より強く、小さな組織であっても、社長や上司が「お茶の淹れ方」をして見せるなどということはすべきではない!とよく言われたものです。しかし、小さな組織であるが故に、お茶の淹れ方だけでなく、事務所やトイレの掃除、挨拶の仕方、そして、Excelピボットテーブルによる売上利益分析方法、Googleカレンダーによる日本本社とのビデオ会議管理、商談だけでなく税関との交渉方法、警察、軍隊の対応方法などなどを、社長や幹部自らが、して見せ、行動の意味を説明し、実際にさせてみて、共感を持つように努めたことは、参画意識の育成と職種を超えた協働体制を高めるためにはとても有効であったと振り返ります。

海外だからということだけではありません。同じ日本語と文化を持つ日本においても、販売や仕入商談の方法、話し方、部長や課長職の意義と責任、当社の考え方などなど、人が増えれば増えるほど、放っておけば、個々人の意識はそれぞれ別々になってしまうものばかりです。当たり前と思われているが、単に先輩の背中を見ているだけでは解らないこと、解りにくいことを、都度、教え聞かせる、してみせる、させてみて、一緒に考えるという日常の訓練は、社員個人個人のスキルを高めるというだけでなく、共通の意識を育てることを意味しており、共に同じ方向に向かって協働しているという意識を高める、極めて優れた手法であることを実感します。

マネジメントのPDCAをもじって、それをコミュニケーションのPDCAと呼ぶことができます。

  • Presentation
  • Demonstration
  • Communication
  • Accelaration
  • 総論と各論を説明する
  • 実際にしてみせる
  • させてみて、考え、思いを話し合う
  • 良い点を見つける、共感する

旧日本海軍、山本五十六大将の言葉「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かじ」に、PDCAという頭文字語をはめ込み、今風にアレンジした言葉として使っています。目指す姿を共有し、協働するための、具体的訓練方法を短い言葉でよく表せていると感じますし、いつでも意識に上らせることができる語呂の良さがあると思います。

小さな会社にも、明日はもっと良くなる、なってほしいと願う社員が多くあります。経営者のモチベーションは、ワクワクドキドキ働く社員の数の多さと共に自然に高まるものです。また、ワクワク仕事をする経営者、幹部があれば、社員も心意気を感じ、同じように気を奮い立たせます。PDCAという、一見無機質な言葉は、実際のところ、とても有機的な関係性の構築、そのためのコミュニケーションがあってこそサイクルという動きを示すものです。それは、毎日、日常の取り組みの中で育成されるものであり、いいこともあれば悪いこともある日頃の中で、どうあれ、目指すのだという心意気が、PDCAを支えてくれます。コミュニケーションのPDCAは、マネジメントのPDCAを回す上で必要となる行動指針のひとつとなりますが、何のためにという、目指す姿が前提となることは同様と言えます。

目指す姿を現実化するためのPDCA

小さな組織も、会社オーナーや社員としての目指す姿、あるいは、個人の目指す姿がありと、あまたの目指す姿が存在しますが、同じ組織で共に働くということは、それぞれが目指すものに重なり合う部分があることの証左になっているはずです。端的に言うなら、会社が儲かれば給料も上がるという期待、会社が安定すれば長く勤められるという願望などは、オーナーを含めた全社員が共有するもので、それこそが重なる、共感を得られる部分となります。それでも生じるPDCAに関わる問題や課題は、あまりにも高すぎる目標設定や現実の技量を超えた行動計画などが障害になる場合もありますが、目指す姿との不整合性や不透明さ、または、PDCAそのもののコミュニケーション不足が、最たる原因になっているのではないかと想像されることがあります。

誰に共感される目指す姿か

目指す姿とは、より幸せを実感できる状態や環境ということもできます。実感するのは人ですが、人にはいくつかの立ち位置があります。会社内であれば、オーナー、社員、職種ごとに分けるなら、営業、経理、製造の人など。社外の人には、お客さんや仕入先など。もっと広く捉えるなら、将来、お客さんや仕入先になるかも知れない他の人々もあります。

2010年に上梓された「マーケティング3.0」で、コトラー教授とマーケティング専門の先生方が、製品中心のマーケティング1.0、消費者志向のマーケティング2.0を経て、世は、精神的価値を含めたマーケティング3.0の時代を迎えたことを主唱しておられます。これは、売手中心のマーケティング1.0、買手中心のマーケティング2.0に次いで、社会も意識したマーケティング3.0というように捉えることができます。そう考えると彷彿されるのが、「売手よし、買手よし、世間よし」という、江州商人(近江商人)の教えです。この言葉は、1754年に制定された中村治兵衛氏の家訓が後世の人々によって「三方よし」の精神を示すものとして語り継ぐものですが、現代マーケティングの粋が、300年前の近江商人家訓と符合することにとても驚きます。

マーケティングや商人道という視点も参考にしながら改めて気付きを得られます、「売手よし」とは、オーナーや社員の目指すものが重なり合うことであり、「買手よし」とは、商品やサービスがお客さんの目指すものに重なり合うこと、そして、「世間よし」とは、仕入先や顧問などの他、様々な業者の人々の目指すものと重なることを示唆しているということです。

目指す姿、PDCAを表現する方法

目指す姿=ビジョンにしても、そこへ向かうためのPDCAにしても、人に共感してもらうためには、それらの内容が表現される必要があります。表現の方法には、話し言葉、書き言葉、数字、画像などが考えられ、特に留意したいのは、日常の姿勢と態度です。

貨幣経済の世の中ですし、ビジョンもPDCAも、通貨の単位で表現するが必要があります。必要があるというより、どの会社も税務申告などのために簿記を行っているはずですから、それを利用した方が手っ取り早いというわけです。ここでいう簿記はダイレクトコスティングによる簿記を指しています。もし、製造業などの場合でフルコスティングでなされているなら、ダイレクトコスティングに置き直す必要がありますが、商社などであれば、そのまま簿記の数字を利用して、ビジョンやPDCAを表現することができます。

そうすることで、売上を上げる計画というものが、「変動費率〇〇のA商品を◇◇個販売する計画」となって表現されるようになり、売上でなく、「単価を◇◇下げ、販売数を△△個上げることで粗利益を○○獲得する計画」というように、ハッキリした経営行動を示す内容として表現できるようになります。まったく簿記の知識がなくても、基本的な簿記のしくみを自社で日頃使われている言葉で表現し直し、変動費や固定費の構造を図示すれば、誰でも簡単に理解できるようになるものです。社内で共通の言葉を使って話合えるようになることが必要です。

中国の唐の時代、白楽天という詩人が、ある老僧に「諸悪莫作 衆善奉行(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう):いろいろな悪いことをせず、良いことをしなされ!」と言われ、「そんなことは子供でも知っとる!」と言い返すのですが、「80歳の老人であってもそれはなかなかできることではない」といさめられることがあったそうです。古くから伝わる仏典の言葉を引くまでもなく、自身の体験を通して、左程にPDCAの実行を維持継続することは易しくないことは分かります。「継続は力なり」とは古人の言葉ですが、継続するには力、モチベーションを維持させる力が必要であろうと感じます。

その力が言葉であり、数字や画像などによって与え続けられる必要があるようです。小さな会社でも、時にして、「売上を上げろ!」「経費を使うな!」という言葉が飛び交うものですが、どういう悪いことなのか、どのように良いことなのかを、分かりやすく、数値や言葉でよりハッキリと伝えるということが、会社のあり様を変えていくことになります。肝心なことは、目指す姿を繰り返し、リマインドできるしくみや習慣を持つことかもしれません。

昭和の時代には「あれやったか?」「例のやつ、もう少し頼む!」などと代名詞を多く使うことが多くあり、不鮮明なその代名詞が何を指しているかを理解することが処世には不可欠とされていました。今でもその向きは残っているでしょうが、PDCAは特定の個人や一部の人のためだけでなく、関わる人々皆が、より良きことを実感できることを目的としています。具体的に、誰でも分かる言葉、仲間の共通の言葉で表現し合い、同じ方向へ進む、つまり、PDCAのプロセス実行に必要とされます。

そもそも、PDCAは目指す姿を現実化することを目的とするのですから、「目指す姿を現実化するためのPDCA」という表現は冗長でおかしな言い回しかもしれません。Pがいかなるものか、Dがなされるのかという論議は当然なされることなのですが、PDCAについてコミュニケーションがなされているかと同時に、本当に納得できるのかとビジョンを振り返りながら反省することが、今後のより円滑なPDCAのあり方を支えてくれます。

古来より、言葉には力があると考えられてきました。以前は、「言霊」と言われ、相手に投げかける言葉は美しく、きれいな言葉でなければならないと思われていたようです。悪い言葉を吐けば、それが現実のものとなり、良き言葉から良きこと、良い縁が得られると考えられていたのです。ただ、現在では、「言霊」だけでなく、小さな会社であっても、ITツールを利用することで社内外、家族や友人とも絶えず交信することが可能となりました。時折聞かれる「炎上」という現象は、「言霊」の力の証左とも言えるようですが、まずは、自分、そして、小さい組織であっても、共感し合える目指す姿を再確認し、コミュニケーションのPDCAは双方向で発生することを思い出し、マネジメントのPDCAについて、コミュニケーション、語り合うことを見直したいものです。

Sow a thought, reap an action.
Sow an action, reap a habit.
Sow a habit, reap a character.
Sow a character, reap a destiny.

William James

考えが変われば、行動が変わる
行動が変われば、習慣が変わる
習慣が変われば、人格が変わる
人格が変われば、運命が変わる

ウイリアム ジェームズ

VPDCAとExcel活用教室プロモーション(Sway)